長野県教育委員会は高校入試制度改革を行っている。
佐久地域の高校の将来像を考える地域の協議会もその一環。
2022年度から新制度を導入する予定を経て、
今年のうちにその新制度を決定して、
実際の試験の内容を2020年9月に公表する予定でいた。
で、12月23日に長野県教育委員会は、
この新制度の年内決定を延期することを発表した。
当然といえば当然の帰結であるといえる。
何事も期限を区切らなければ実行へと移行していかないのは事実だが、
でもまぁ、それでもちょっとバタバタ感はあったかな。
高校再編とリンクしている
・・・と少なくとも私は思っている・・・
ので、そういった意味でも、
ことを急いては仕損じるというやつだ。
さて、高校の将来像を考える協議会に、
将来の高校生やその保護者という立場から参加させてもらって、
さすがに知りもしないことをとやかく語るのも、
なんだか今の政治家みたいで嫌だったから、
長野県東信地区の中山間地という扱いの3校、
小海高校・軽井沢高校・蓼科高校を直接見てきた。
その上で改めて総論を書いておこうと思う。
佐久地域の高校の将来像を考えるということは、
どうしても箱物の将来像ということになってしまいがちだ。
本当に想起しなくてはならないのは、
将来の高校生像であるといえる。
だから今回も、なまの高校生を見にいってきたというのもある。
じゃぁ、私は高校生にどういう将来像をいだくのか?
戦後から続いてきた民主主義・資本主義・社会主義・共産主義などの、
政治のあり方と経済のシステムの相関性に疑問符が投げかけられ、
同時に別の価値観を求めるようになってきて、
どんどんすべての方向で価値観が多様化してきている。
次の時代を生きる子どもたちには、
自ら選択をし、自らの選択と他者の選択を尊重し、
むしろ自分で選択肢を作ることができるようになってほしいわけだ。
失敗したって大丈夫。
成功したって大丈夫。
それらも選択の結果に過ぎないし、
行き過ぎたものでなければ、次の選択がまたできる。
そんな世の中になってほしいし、そんな世の中を支えてほしい。
別の何かによって、選択肢がどんどん削られて、
気がついたら、あれか・これかみたいな、
思考や行動に落ち込まないようにしてほしい。
だから、そういった思考や行動を育む具体的な場所として、
そんな高校生たちを育む場所として、
高校というのは存在してほしいと願っている。
とかく日本人は失敗に厳しいような気がする。
これは日本人だからそうなのか、
日本人が文化的に現段階まで来てしまったからそうなのか・・・
おそらく、
江戸時代から始まる国の仕組みが、
日本人のそういった風潮を作ってきたような気がする。
失敗しないようにする・・・
という考え方が更に押し進み、
失敗したらダメだ・・・
というところまで行き着くと、
それはもう当人の配慮や不安を越えて、
失敗したらダメ!という一般的な価値観にたどり着く。
さらにそれが進めば、
失敗するぐらいならやらない!
という行動原理へと至ることになる。
実はこの行動原理・・・今の子どもにすごく多い。
それは子どものせいだけではない。
いや、子どもはそんなことお構い無しで普通は、
オイオイ・・・って行動を普通はとってしまうものだ。
失敗とか成功とかそんなことは関係なく勢いがある。
そしてそこでいろいろなことを学ぶ・・・。
でも、大人はついつい先が読めるので・・・
読めるといっても所詮は・・・って程度のものだろうけど、
子どもに良かれと思って静止を促してしまう。
となると、むしろ、
大人によってその価値観が、
子どもに刷り込まれてるといえるのではないか。
まあ、もっとも失敗してほしくない!という親切心からであって、
そういった意味で
失敗したらダメ!
という価値観が刷り込まれてしまっているのは、
今の大人達なのかもしれないが・・・。
選択をするとき、
どちらが正解か?を常に考えてしまう。
それは悪いことではない。
より良い方を選べんだ方が良いに決まっている。
ただ、
選択肢が自ら増やせない。
消極的な理由から選択をしない。
選択したら途中で変えられない。
といった状況に陥ってしまっているのは、
子どもにとっては好ましいことだと私は思えない。
特に、基礎学力がついて、
年齢的にも自我の確立をむかえた時期の高校生にとって、
その後の50年から70年の人生を、
選択の連続を強いられる人生をどのように乗り切っていくか!
という力を身につける、
そんな最大の機会を失しているのではないか
という危惧は、もはや切ない限りなわけだ。
再度となるが、
高校生にどんな人になってほしいのか、
どんなことを経験してほしいのか、
どんな時間を過ごしてほしいのか・・・
それが具現化されたものが高校ってものじゃないのか?
きつい言い方をあえてすると、
戦後からごくごく最近まで、
保護者や年長者は、子どもや若者に、
普通の人になってほしくて、
勉強をしてほしくって、
将来のための苦行を若いうちにしておいてほしくって、
そういう思いから、
今の高校の姿が形作られたといってもいいかもしれない。
今はどうだろう?
そんなことを言う人はほぼいないんじゃないかな?
オンリーワンな自分になってほしくって、
自分の将来や他人を考えることのできる様々な体験をしてほしくって、
なにより自分の人生が充実していると思えるようにしてほしくって・・・
そんな風に望んでいる大人が多いのではないか?
だったら、それを具現化する高校であってほしいと思うのは、
至極当然のことだろうとおもうのだが・・・。
ハードよりもソフトが先であるということを、
少なくとも私は強く意識している。
高校再編とて同様のことだと思うのだが・・・。
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