正月に帰省することを
名古屋の母に電話をした。
これが私のテンションを下げるに
十分な威力を持っていた。
川久保では1月2日に獅子舞をする。
私や妻と3愚息の年末の予定が終了するのが、
12月28日ぐらい・・・
それで、母に電話で伝えたわけだ。
12月31日ぐらいに帰って、1月1日に佐久穂に戻ると。
すると、
泣きながら、
帰ってこなくていい!と叫ぶ母。
母曰く、父が存命だったころから、
父とよく話をしていたという。
こっちに帰ってきても1日か2日しかいない!
そっちの都合ばっかり!
こんなみじめなことはない!
周りの人たちに色々と言われているの!
私は何もできないんだから!
・・・あれ?そうなの?
正直、私としては???な感じだった。
特ににみじめ・・・という感覚がわからない。
たしかに、私は旅行が得意ではない。
だから家でないところに泊まること自体、
おっくうではあってもワクワクすることはない。
緊張のあまりドキドキすることはあるかな?
だから実家と言えど長居はあまりしないのは確か。
それに、私たちが長居することで、
迷惑がかかるかのような表現をしていたのは、
私の父母だったような・・・
父曰く、母の心の状態が良くないから今回は帰ってこないでくれ
とか、
母曰く、あまり長いするとお父さんが頑張っちゃうから・・・
とかを言われ続けてきたんだけどね・・・。
確かに、
父の1周忌について催促も何も連絡がなかったから、
バタバタしてたらこんな時期になってしまったは事実。
それについての罪悪感はもちろんある。
それについては、母は何も言っていなかったけど・・・。
でもまぁ、何を考えてそうやって言っているのか
さっぱりわからないが、
何をしてほしいかは、
息子の私が感じ取らなくてはいけないものらしい・・・
そんな雰囲気の発言ばかりだった気がする。
・・・
よくわからないけど、
しばらく様子をみるしかないかなぁ。
話は変わるようで変わらないのだが、
今、年長の三男がとにかくよくない!
何が良くないかって、
家族という集団の中にいて、
自分より下の存在がいないことが影響しているんだろうと、
私は思っているのだが、
ようするに、
自分の周りを他者が整えてくれるのが当たり前!
という様子がありありと見える。
だから感謝の言葉も少ないし、
自分から率先して動くようなこともしない。
しまいには、やるべきことを言うと、
なぜかすねた顔をしてガシャガシャとこれ見よがしの動きをして、
さらに、そんな見てくれだけでしっかりできるわけがないので、
シクシクしだす・・・
まるで、自分はなんて不幸なんだ・・・と言わんばかりに。
こういった感覚は全く理解できない。
というか、理解する必要すら感じない。
何々してくれて当たり前・・・なんて、
どんな経験から獲得する感覚なんだろう?
先に書いた、話がかわらない・・・というのは、
私の母もこの傾向が異様に強いと感じるからだ。
しかも、何もできないからしょうがない・・・
といった開き直りすら感じることがある。
だからそんな私の母を見るにつけ、
三男がこのままでは世の中に対応できない!
と、強い危機感を感じることになる。
それでも、
なんだか自分がとっても親不孝な人に思えてくる。
名古屋にひとり母親を置いて、
佐久穂町で、子どもや町のために活動していることすら、
根本的にいけないことのような感じに追い込まれる。
残された母親のために、
すべての思いを読み取って、
母親のための人生を送るべきなのかと・・・
つい、錯覚してしまう。
それが嫌だから連絡が疎になっていく・・・。
もう、これは私にも母にも悪循環なのだろうという自覚はある。
私の嘆きや悩みは、置いておいたとして、
妻とこの件で一様の結論を得た。
いや、私の母親に対してではなく、
自分たちがどうやって歳をとっていくか・・・について。
とにかく一番大切なのは、
年齢がいくつになっても社会参加をし続けること!
これに尽きる。
社会参加というか、
多様性に触れ続けることが大事だということになった。
だから、仕事だけでなくとにかく外の動きに参加し続けよう・・・と。
インドア派な2人にとっては、
結構、大きな決断だ。
しかもこれは、
教育業界にいる私たちならではの結論であるともいえる。
明らかにクラスの中で色々な活動に参加している子どものほうが、
自分の人生を自分でコントロールできる力というか、
思考ができるようになっているように見える。
まず、何かを人のせいにあまりしないし、
人のせいにしないから自分のやるべきことを思考するし、
それが思考できるから次の行動へゆっくりでも移っていける。
だから子どもにとっても、教育の上、
社会参加をし続けることは最重要であると感じる。
三男も私の母も将来の私や妻も・・・
そしてそれぞれが年老いた後も、
次の世代から一方的に受け取るだけでなく、
次世代に与えられるように・・・
いや、金とか独りよがりな経験談とかではなく、
考え方、もの、労働、金、やさしさ、経験則・・・
すべての分野で次世代と等価交換ができるように、
常に成長し続けなければいけない。
あくまでもこれは勝手に思うこと。
私自身が思うこと。
それでも、そういった人が増えてくれば、
きっと
多世代間交流なんて言葉は不要になる
と思うんだけどね。
明日、12月定例会採決
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