私が小学生のころ、授業に道徳というものがあった。
私はこの時間があまり好きではなかった。
こどもごころに、
国語とどうちがうんだろう?
と思ったものだ。
道徳というと、どうしても読み物を読んで、
その文章に関わることがらについて、
先生が着地したいだろうと思われるところへ、
意見の出し合いを経て向かっていく。
結果、〇〇が良い・悪いという倫理的結論が待っている。
私にとっては、実は国語の授業も同じ印象を持っていた。
人それぞれ、感じ方はちがうだろうに・・・
でも、授業では自信満々で、まさに断定と言う形で終わりを告げる。
・・・教員だった自分がいうのも何だが、
小学校のころの道徳の授業や国語の授業ってこんな印象だったのは確かだ。
だから、その反動で現在の自分が形作られているとも思える。
実は私は一時期、道徳科?の教員になるかなぁ、
なんて思った時期もあった。
教科化されるのに実践的専門家がいないのは、
おかしいだろ!って思っていた・・・いや、今もそうかな?
だから、自分が担任した中学生のクラスでは、
時々、ホームルームの時間などで道徳の授業を行ったものだ。
その時に心がけたことは2つ。
もちろん自分の過去の経験の反動からきている。
ひとつは、読み物を絶対に使わなかったこと。
教材として取り扱ったのは、特定の命題
・・・こんなときどうする?といった問題・・・や、
映画やドラマなどの映像が多かった。
ドラえもんとかウルトラセブン、ヒックとドラゴン・・・。
もうひとつは、結論に向かっていくと、
2つ以上の価値観が均衡して対立する構造のものを取り扱うこと。
だから議論を進めても、当然、答えはでない。
重要なのは、自分の中でその価値観が、
対立していながら共存していることを
受け入れることだと思っている。
そういった意味では、
民主主義と似ている。
民主主義とは多様な価値観の共存であると、
私は思っているのだから。
来年度から、
学校教育の現場で道徳教育が週1時間組み込まれる。
英語教育も始まる中、
どこでどのようにその時間を捻出するかが、
現場では問題になっている。
とはいえ、やる!と決まった以上、
こどもたちの人生に意味がある時間の使い方になってほしいものだ。
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