人は残念ながら、それほど優秀な記憶力を持っているわけではない。
教員をやっていた頃にもおうおうにしてあったことだが、
人は事実を記憶しているわけではなく、
脳内の思ったことを記憶しているのだという事例が多い。
例え話。
ある子が、
誰もいない教室の机の上にあった漫画を見つけて手に取った。
教室にドヤドヤと人が入ってきた。
慌てて自分の着替え袋の中に押し込んだ。
その着替え袋をロッカーにしまった。
という事実があったとする。
このあと、無くなったものが漫画だけに、
持ち主の子もしばらく放置。
後日、それがある子のロッカーから出てきて、
窃盗事件として公になる。
こういった場合、そのとった子に事情を聞いてみると、
支離滅裂な証言が返ってくるか、もしくは無言になる。
このあとが大変だ。
本人が故意に計画的に悪意を持って窃盗をしたのであれば、
その子の証言に意図的な嘘が混ざり、
嘘をついているという思いから発言に整合性がなくなり、
最後には罪を認めるということになる。
これならまだいい。
問題は無計画で刹那的で悪意がない場合だ。
本人の記憶はこういった時、ほとんどの場合あいまいだったりする。
しかし、教師にしろ親にしろ、
事実を正しく記憶しているはずだ!
ということを基点に聞き取りを始めるため、
これまたおかしなことがおこる。
この場合、その子どもが主張するのは、
「勝手に私のロッカーに入っていた」
「誰かの陰謀だ」
「机の上においてあるのは見たけど私じゃない」
「これは自分のものだ」
などなど・・・。
その子どもは記憶があいまいなため、
教師や親に問われた方向への誘導にのってしまったり、
もしくは自分の身を守るために防御姿勢全開の発言をしたりする。
しかも、たちがわるいのは、
その発言回数が重なれば重なるほど、
その発言内容が、
その子の記憶として再形成されていくということだ。
だから、どんなにつじつまが合わなかったとしても、
その記憶が事実と思い込んでいるがゆえに、
その主張を繰り返すことになる。
こうなるともうどうにもならない。
最終的には大人から嘘つき扱いを受けて忸怩たる思いにとりつかれる。
「私は嘘をついてないのに・・・信じてもらえない!」
という風になる。
全くもってその子は嘘をついているわけではない。
残念なことに、作ったもしくは作られた記憶によって、
その子の持っている真実を告げているに過ぎない。
自分の信じるものを他人から否定されて、
自分の信じるものを捨てることは、
おそらく生きる上で
もっとも困難なことのひとつだろう。
こういったことは、実は日常茶飯事。
だから私たちは知っておかなければならない。
人間の記憶なぞ、
事実を伝える能力がそれほど高くないのだということを。
悲観しているのではない。
そういった自身への戒めを常に持っていたいということだ。
小学校4年生は国語の授業で『ごんぎつね』を学習する。
おそらく知らない人は少ないのではないか。
小学校4年生にしては、ラストシーンが衝撃的だったから特に。
これを「覚えていない」という人はあまりいないだろう。
ごんは兵十が魚をとっている網から魚を逃がすいたずらをする。
その魚にはうなぎがいた。
その後、兵十の母が死ぬ。
うなぎが食べたいと願っていた母のうなぎを捨ててしまったごんは、
ひどく後悔をし、その償いにクリなどを届ける。
届けるなかで偶然兵十に見つかって打たれて死ぬ。
簡単にストーリーを書いてみたが、
ここには大きな間違いが2つある。
私も長男が音読するまで気が付かなかった自分の記憶の間違い。
もしかしたら小学校のときに、
シュールな先生に教えてもらったなら
しっかり記憶することになったのかもしれないが・・・。
ひとつは、
兵十の母はうなぎを食べたがっていたかどうかわからない・・・
ということ。
あれは、単なるごん自身の妄想に過ぎない。
実のところは全く書かれていない。
そもそも兵十の母がどうやって亡くなったのかすら書かれていないし、
ごん自身もそれを知る由もない。
ふたつ目は、
偶然に見つかって打たれたのではないかもしれない・・・
ということ。
打たれる前にごん自身が言っている。
「神様におれいを言うんじゃ、わりにあわないなぁ」って。
つまり、ごんは自分がクリなどを置いているということを、
兵十にわかってほしかったという思いがあった。
となると、故意に姿が見られるような動きを少なからずしたのではないか?
これは私自身が長男の音読の時に気がついた、
自分の記憶の不正確さと思い込みの強さを戒めたにすぎない。
だが、そういった記憶の不正確さを知っているからこそ、
教育の現場で、また自分の子育てで、
あぁ、よかった!
と思える場面が幾度もあったと確信している。
南佐久環境衛生組合視察研修まであと13日
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