牛丼の吉野家が、
企業戦隊ニクレンジャーという企画をボツにした。
なんでも5社を集めることが難しいから・・・ということらしい。
と、いうことがツイッターで話題になっている。
この話題はここで終わらない。
このボツ企画。
すぐさま他の企業が反応した。
ガストレッド。
ケンタホワイト。
モスグリーン。
松屋イエロー。
いずれもツイッターの公式アカウントからの配信。
わたしたはここで、2つのことを学ばなければならない。
1つはインターネットやSNSの普及による無境界化と高速化。
そして、もう1つは、
この企画が集めるという行動をしないうちに、
「集まらない」と決めつけてボツにしている・・・
そういった行動を行う前に何らかの知識や経験によって、
決めつけてしまうという悪癖。
この悪癖は残念ながらいたるところにはびこっている。
やってみて駄目だったらそこから別の手を考えればいい!
と、昔から声高にいわれるが、
言うほど実行はされていない。
特に日本人はそれが苦手であると感じられる。
思いつきで語るのでそのあたりはご容赦。
ようするに失敗することに、
社会が寛容ではない!
AがBに対してアクションを起こし、
失敗した・・・もしくはBに断られたとする。
失敗を決定づけた、もしくは断った、
当のBは実は言うほど、そこにこだわりを持っていない。
むしろ「申し訳ないなぁ」ぐらいの気持ちがある。
だが、断られた・・・失敗したAは必要以上に後悔する。
あぁ、行動に移さなければよかった・・・と。
それが悪い癖だ。
しかもそれ以上に日本の場合、
無関係である第三者・・・例えばCが、
その行為について、したり顔で説明をし説教じみたことを言う。
誰だって結果を見てからなら大先生になれるってもんだ。
当事者でもないCがしゃしゃり出て、
あーでもない、こーでもないと、
自分を巨大に見せる行為にせっせと勤しんでいるから、
失敗に対する罪悪というものが、
まるで当然かのように思われるようになってきてしまう。
教育の世界にいたせいもあって、
教育の弊害となり得る悪癖であると、
以前からずっと思っていたし、
この悪癖を極力減らしていくことを望んで活動してきた。
が、現実はなかなかそうはいかない。
で、
失敗するより、行動しないほうがマシ。
間違えるより、わかりませんって言う方がマシ。
バツをもらうよりも、空欄にしておくほうがマシ。
否定されるよりも、発言しないほうがマシ。
問題を抱えるよりも、見送ったほうがマシ。
と・・・
まじめな子どもほどその路線を爆進する。
そしてその子たちが大人になると、
まじめであることが美徳とされる職業のいくつかで、
そういった爆進してきたまじめな人たちが、
その感覚で仕事をする。
まじめであることは評価に値するが、
まず「やってみる」という行動がないから、
実に面白くもないし、新たな発見も生まれない。
私から言わせれば、
成功体験も失敗体験もないのだ。
あるのは純粋に体験のみ。
成功と失敗の価値判断について
本人が必要以上に過大に思ったり、
第三者がしたり顔でそれを判断したりすること自体が、
いわゆる教育的な失敗なのではないのかい?
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