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二律背反に答えを出そうとする時代の節?

新しい時代をひしひしと感じている今日このごろ。

竹は節があるから強い・・・

と、誰かが言っていたが、

そんな節目を必要とする時代に差し掛かったという自覚すらある。

正直なところ、一つの時代が終わりに向かっているという認識が強い。

 

教育者である私は、やはりそれを教育に感じることが多い。

多様な価値観の共有・・・

それ自体はとても素晴らしいことだとは思うが、

それは決して個人の持つ様々な価値観を世界に共有させなければならない・・・

ということではない。

認めるということと、それを享受するということとは別である。

 

新たな時代に必要なことは、自分の有り様に責任を持つことであって、

自分の信じるあり様のために、他に制約を強いることではない。

 

ところが人は、

その性質からだろうか?

自分が不利益を被ることにひどく嫌悪感を受け、

それだけにとどまらず、

他者の過剰で幸運すぎる利益にも少なからず嫌悪感を感じる。

だから、その性質によって、

敵を作り出すという使命感を満足させようとする行動をとりがちだ。

 

ましてや、理論的に考えることが苦手な人ほど、

更には自分が理性的であると自負している人ほど、

そこに抑えが効かないような気がする。

それこそ、そういう人たちは、あるべき姿をもとに、

真実はひとつであると思っている傾向がある。

事実はひとつであったとしても、

真実は人の数だけあるというのに・・・。

 

これは皮肉で言うのだが、

そもそも事態を多元論的に捉えるべきという傾向が、

多様な価値観を認めることであるのに、

すわ、思考をする段になると、

一気に二元論的な思考を進めてしまう傾向がある。

多元論を二元論で語るなど滑稽極まりない所作である。

色々な価値観はありやなしや?

そんな二律背反な思考をしているから、

このようなねじれたおかしさが溢れかえっているのではないか?

 

民主主義は多様な価値観の共存を、

多数決という方式を利用することで整合性を保とうとしたが、

多数決が二元論の極みの手法であることを知ったとき、

結局、民主主義の先に、

光ではなく混沌しか見えなくなってしまっているのではないだろうか?

これが今の過渡期にある時代のひとつの節目なのだろうと、

私は改めて思う。

一般的に素晴らしいと思われる価値観を行動規範にしている人ほど、

つらい目に会うだけでなく、不利益を率先して被ってしまっている・・・

そんな時代にそろそろ嫌気がさしてきているのかもしれない。

 

私はまだ諦めていない。

私が素晴らしいと感じるごくごくありふれたいい人という、

そんな人のあり方を自分で戒めている人ほど、

ささやかな幸せを得て、大きな不幸を被らない、

そんな時代が次に来るということを。

 

本日、広報編集調査特別委員会実施

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