毎年、りんごやSUDAさんのところで、
りんごの木を1本借りている。
いわゆるオーナー制度というやつだ。
今年もこの時期がやってきた。
その1・2ヶ月前、
佐久長聖中学校担任時代の教え子から連絡があった。
もう彼らも22歳。
順当に進学していれば、就職する歳となっていた。
連絡の内容は、大学卒業前に同窓会をしたいという内容だった。
もちろん、彼らとて今の状況はわきまえていて、
いつできるかわからないが、
その時のために私のメッセージビデオを撮影したとのことだった。
そして、ちょうどいいタイミングで、
それを行う日がきた。
それが、りんごの収穫体験の日。
天候などによってだろうかりんごのデキは、
昨年よりも少し残念な感じがするが、
それでも彼らが訪問してくれたのは何よりも嬉しいことだった。

こちらとしてもビデオ撮影といわれても、
恥ずかしさしかないので、
中学生のころの生活記録みたいに、
それぞれの生徒が生活記録をLINEで送ってきて、
それに口頭で答えるという形を取らせてもらった。
彼らはもう中学生ではない。
でも、中学生には中学生の真面目な苦悩があって、
22歳には22歳なりの苦悩があると思う。
私とて49歳なりの苦悩があるのだから、そんなことは当然だ。
私はそう思って中学生のころの生活記録に、
できるだけものの見方が広がるように対応してきたつもりだ。
そして、それは今もあまり姿勢としては変わらない。
が、彼らも、当時と生活記録の書く姿勢はあまり変わらないようだった。
22歳になったある生徒が私に質問をする。
もし神様がいたとして、
その神様が、
人間から理性と感情のどちらかを取り上げる場合、
どちらを残すか?
もちろんその生徒は、細かい設定なぞ望んではいない。
そのシチュエーションについての評価などどうでもいい。
きっとコレに答える理由が、
その人の思考を端的に表しているのではないか?
そしてそれを自分で受け止められるか?
というためだということは理解できた。
私は少し考えて、感情を残すことを選択。
もちろん理性を残すことを選択するという考え方もある。
いや、むしろそちらが多いのではないか?
でも、私は思うのだ。
カントには申し訳ないが、
人は最初から理性など持って生まれてきてはいないと思う。
人との関わりも持つ中でそれは形作られるものだと・・・。
だから教育はその経験を安全に行う役割を担う。
そういう役割を持っているからこそ、
私はこの分野を自分らしさの基軸にすえ続けられるのだと思う。
とはいっても、私は彼らに影響を与えた自覚はまったくないし、
そもそも他人と過去は変えられないと理解しているのだから、
私が彼らの思考になんら責任を持つ必要もない。
むしろ、そんなことを思ってしまう時点で、
私は彼らを軽く見ていることになりはしないか?
とすら思うのである。
だが、笑顔で、
他人と過去はかえられませんから!
と、22歳になった生徒に改めて言われると、
顔には出さないが、
申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

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