熊本県で集中豪雨災害が起きている。
堤防の決壊やら橋の崩落、
土砂崩れによる死者も出ているようだ。
痛ましい限りだが、
やはりテレビという箱の中の世界であって、
テレビというか電波というか・・・
その感覚的遮断力といったら凄まじいものがあると改めて思う。
とくに、人の思惑がそこに入るから余計である。
つい10月に佐久穂町は東日本台風に被災した。
そのリアルさは、その時のテレビや電波の遮断力を、
まざまざと感じるに至ったわけだが、
その被害の傷も癒えぬ間に熊本の情報を見ると、
もちろん心が痛むが、
どこか遠い話なのだと思ってしまう自分がいる。
特に改めて思うのは、
これはひどい!
と思う画像ばかりを報道が繰り返し繰り返し流している・・・
という事実だ。
もちろんニュースを誰がどの段階から見るかわからないわけで、
速報に関しては当然ながらその場面を映す。
ただ、それがひたすら時系列も追わずに、
センセーショナルであることに重きを置いて報道する。
熊本の今を伝えることよりも、
その災害の恐怖と大きさを伝えることに重きを置く。
そういえば、東日本台風災害のときもそうだった。
千曲川沿いで家がくずれて流されるシーンが繰り返し、
判を押したように、報道されたのを思い出す。
ふと思う。
あの報道って、何のために報道されたんだ?
その主たる動機って何だ?
真実を伝えるためだというなら、
なぜ特定のシーンのみを繰り返し報道する?
逃げ遅れている人のためか?
自宅で安穏とテレビを見ている人には効果はあるだろう。
逃げようとしている人にはテレビを見る余裕はない。
逃げ終わった人が欲している情報は崩れ行く世界ではない。
教育に携わる自分だからこそ自戒して思う。
行動のそこにある動機はなんだ!
教員は数学を学習する動機を子どもに与えているか?
必要だから学習を促すというならば、
その必要であるという動機はなんだ!
国語は、社会は、理科は、英語は!
おれ、英語なんかつかわねーからいらねー。
という子どもの発言に対し、
真っ直ぐに答えられる動機を持っているか?
まさかピーマンおいしいし栄養もあるよ・・・
程度の説得力しか持たないのではあるまいな。
・・・と常に自分にも他人にも問いかけている。
だから報道にも問いかけたい。
その動機はなんだ!
社会に必要だと主張する動機はなんだ?
その動機が受け手にすんなり受け入れられるようになれば、
きっとテレビや電波の感覚的遮断力を感じない世界になるのではないか。
あえて、人としてひどい言い方をさせてもらう。
まさかとは思うが・・・。
世の中にはすごい不幸な人がいて、
そんな不幸はある一定の人だけだから、
他の皆さんは安心なさってください。
とでも視聴者に伝えたいのではあるまいな!
反語のつもりで書いたわけだが、
残念ながら人は心理学的にそんな傾向を持っているというから、
切ないかぎりだ。
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