テレビ番組にすっかり疎遠になってしまったから、
テラスハウスだっけ?
そういう番組があることは知っていたけど、
全く興味をもっていないどころか、
番組自体の存在を知らなかったわけだ。
ただ、今回お亡くなりになった木村花氏は、
女子プロレスラーで、
どちらかというと悪役をつとめていた。
実はYoutubeのプロレスの動画で何度も拝見していた。
ちょくちょくYoutubeなどの動画でプロレスは見る。
私が小学生のころは、
初代タイガーマスクが全盛期だった。
新日本プロレスの闘魂三銃士なんてのもワクワクしながら見たものだ。
すでにお亡くなりになっている橋本真也が好きだったことを思い出す。
最近では、大阪プロレスのコテコテの笑いなんかも、
気がつけば動画を見ている。
そんな熱心なファンでもなかったし、その自覚もないのだが、
おそらく私の中にプロレスへの興味と憧れはあったのだろうと、
改めて思う。
プロレスのすばらしいところは、
ショーであるという割り切り。
悪役がいて正統派がいて、派閥争いや裏切りがあって・・・
ドキドキワクワクするエンターテイメントとしてのショー。
よけられる技でも受けられるだけ受ける。
そんな姿勢もプロレスの面白いところだし、
あれだけ受けてもなお、試合を続ける・・・
あの体力や精神力は賞賛に値する。
でも、最近の人の中でショーが理解できない人もいるみたい。
ニュースショーもワイドショーも、ショーなのに、
世論を代表しているかのような、
事実のみで構成させれていると思っている人も多い。
ひどいのになるとニュースショーやワイドショーの主張が、
日本国の正義であるかのように思っている人までいるようだ。
今回の木村花氏が出演していたテラスハウスだって、
恋愛リアイリティショーであって、
現実ではないショーだと理解できていない人が多かったようで、
あーでもない、こーでもないと、
木村花氏を悪くいう書き込みを
インターネットを介して、
しかも匿名で行った人がたくさんいたようだ。
彼女はおそらく自殺をした・・・。
私ごときが事実を詳しく、知る由もない。
報道の情報ですらも、
最近は、ソースも信用できない上に、
極端に問題意識を高めようとする傾向もあるように思うので、
それをもとにして、この問題についてを云々するのは控える。
ただ、インターネットやSNSの中で、
ひどい言葉の暴力が振るわれていることについては、
見逃すわけにはいかない。
言葉による攻撃的な暴力を一般的なことにしないためには、
いくつかの方法がある。
1つはその母体ごと禁止事項にすること。
これは、麻薬や銃のような社会に害をなす要素が強く、
それらがない社会が構築しやすい場合。
事実上、言論の自由という考え方がある以上、
SNSやインターネットそのものを禁止するかのごとき選択は、
とり得るとは思えない。
とは言っても、実は、
子どもに対しての現在の対応はこれを行っている。
パチンコや飲酒などのように年齢制限しているのも、
広い意味でこの対応策といえる。
制度的禁止といってもいいかもしれない。
2つ目の方法は、
迷惑をかける行為においてのみ法律で罪とする方法。
普通、法律によって判別されるものは、
ほとんどがこれに当たる。
社会全体としては効率がよい方法であろうが、
この問題点は、被害者が出てはじめて罪になるということだ。
つまり、一定の被害者を出すことを覚悟した上での、
抑止力ということになる。
インターネット上での暴言については、
何を持って罪とするかという規定が難しいのはもちろん、
抑止力としての罰の規定がそれ以上にむづかしい。
しかも匿名性が高いので、抑止力自体に問題が残る。
そして最後の1つが、火や刃物の取り扱いと同様に、
使用方法や作法、倫理的配慮などを学習することにより、
他者に極端な迷惑をかけないようにすること。
つまり、教育的対応とでもいえるか・・・。
私は、
すでにインターネットが生活の一部となっている、
今の社会において、
この必要性を声を大にしていいたい。
そんなことはわかっている。
あたりまえだ!
という意見は当然、私に向けられるだろう。
じゃぁ、子どもに対して、
社会は、教育関係者は、親は、
どんなことをしているというのだ?
火や刃物と同じように、
インターネットも使用しながらそれらを学んでいかなければ、
この対応策をとっているとは言えない。
だが、現実はどうだ。
火や刃物すら、危ないからという理由で、
禁止事項にしていはいないか?
それでは、On The Job Trainingになりえないではないか。
そもそも、社会や教育関係者、親は、
人の醜い側面・・・
例えば、
自分より幸福な人が落ちていくのを見て、
幸せを感じてしまう性質を持っていること、
自分が辛くなると他者への攻撃性が増すこと、
自分の正義を信じて、他者の正義を軽んじること、
そしてそれを伝える、信じさせる手段に善悪を感じないこと、
などを、
ちゃんと子どもたちに伝えているのだろうか?
それらにあらがえ!・・・と伝えているだろうか。
1人の親として思うのは、
自分が忙しい・・・もしくは、
いちいち対応するのがめんどくさい、などの理由で、
そういった人としてのあり方を、
子どもに面と向かって真剣に伝えなければならないことを、
ついつい軽視しているのではないか・・・
ということだ。
気が付かないうちに我々親は、
倫理的なことまで、
学校が教えてくれると思い込んではいないか?
道徳という教科のなかで、
親自身がまだ至っていないような聖人君主に、
学校が自分の子どもをしてくれるのではないか?
と思ってやしないか。
思ってないにしても、親として子どもに果たすべき義務を、
見ないようにしてはいないか?
そもそも、自分が子どもに胸を張って伝えられるほど、
倫理観のある人になりえているのだろうか?
見直すべきはもちろん
制度かもしれないし、制約の規定かもしれない。
でも、ほとんどの人がそこには手がとどくまい?
だったら、まず見直すべきは、
すぐにでも手の届く親としてのあり方、
そして、人としての自分のありようなのではないか。
手の届くところを改善できなくて、
どうして社会が変わっていくことがあろうか・・・。
出席できない議会運営委員会まであと3日
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