議会改革特別委員会にて、
ひとまず定数と報酬の結論をみた。
現状維持・・・。
あくまでも、現状ということだが・・・。
さまざまな考え方があろうとは思うが、
現実の分厚さに面食らう機会がここ1年多くなってきた。
それは、おそらく、
自分が様々な所に関わる機会が増えたからだろう。
本来ならば知らなかった世界に触れることができ、
それはそれで素晴らしいことだが、
その世界を少しでも良い方向にしたいと思ったとき、
自分の力の無さに辟易することが同時に増えていった。
町議会議員についても同様だ。
そして私がイメージしていた議会というものへの
乖離もかなり大きくなってきた。
民主主義だから、
それを受け入れるしかないのか・・・
自分のイメージに近づけるためにもっともっと、
活動をし続けるべきなのか・・・。
そもそも私はネガティブだから、
正直、自分の持っている方法論やアイデアに、
絶対的な自信を持っているわけではない。
だから余計・・・
強い説得力を持って押すことができない。
どこかで自分自身を疑っている。
自分の持っている知識・知恵・運・・・
それらを疑っている。
逆に、
疑っているからこそ、
それなりに生きてきたという自負がある。
ネガティブであれば、
最悪の事態をイメージしたりするから、
だから、
知識をもとめるし、知恵がつかえるようになる!
とすら思っている。
だが、そんな思考は、
政治家には向いてないのかもしれない。
いやいや。
そもそも政治家になりたかったわけではなく、
せいじ屋さんになりたかったんだ!
と改めて思う。
このブログの表題どおり。
私は自分の正義を貫きたいわけではない。
周りの人たちが少しも不幸が減ればそれでいい。
だから、そっと寄り添って、
何か手伝って、それで不満の少ない町になればいい。
それが子どもたちにとって、
子ども時代をすごすにあたっての幸せの一端になるのでは、
と思ったに過ぎない。
ここからは子どもによく聞かせる話。
単なる個人的な主義主張であることを踏まえた上での話。
人への心遣いや親切、やさしさというのは、
気づかれないのが一流だと思っている。
その思考は長男の名前の1字にも出ている。
董。
蓮のねっこ・・・つまりレンコン。
骨董品のトウの字だ。
まさにこの1字に私の思考が出ていると今では思う。
長男に対しては、
花を咲かせるのは数度でいい。
そのための力を蓄えておきなさい・・・と言っている。
親切についても、
例えば靴を並べておくという親切・・・
これをみんなに見えるように、評価されるように行うのは、
親切の極みに達していないと私は考える。
みんなが帰るときに何事もなく、
誰も気が付かず、
普通に履きやすく靴を履いて帰る。
そんな状況を作れる親切ができるように、
なりなさいとも言うし、
自分でもなるべきだと思っている。
どうしても自己顕示欲が自分の行動原理になりがちだ。
それがダメだというつもりは毛頭ない。
そんな生き方、考え方だって当然ある。
そしてそこにはその人なりの正義ってもんがあるはずだ。
ただ、
私は違う・・・というだけだ。
そして子どもに望むこともそうではないというだけにすぎない。
とはいっても、
一方で私を応援してくれている人もいるわけで、
その人達に対する真摯な態度というのは、
私の思っているようなことを、
具現化するもしくはそれに近づける行動をする・・・
そしてそれを見える化する
ということであることもわかってはいる。
こうやってブログを書き続けているが、
それこそ、この行為自体になんの意味もないのでは?
と思うことも増えてきた。
だから私自身のこのモヤモヤ感まで、
恥ずかしげもなく、惜しげもなく、
晒してしまう。
政治家としての資質を疑われても仕方がない。
でもね。
やっぱり政治に関われない子どもたちに、
政治に興味を持ってもらって、
自分の人生を自分で動かしてもらう、
自分の地域を自分で動かしてもらう、
そういった影響を与えていきたいし、
子どもたちの立場をある程度代弁する・・・
そういった意識をもったせいじ屋さんが、
町にひとりぐらい必要なのではないか?
という思いはかわらない。
あーーーーーーー!
本当にこの道が正解なの?!
って、そんな今の心境だわ。
3月定例会まであと17日
コメント