佐久穂小学校のPTA会長になったので、
来賓として南佐久小学校音楽会に出席。
6月21日10:00から川上村文化センターで行われた。
南佐久小学校音楽会というのは、
南佐久郡の小学校・・・
小海・川上第二・南牧北・佐久穂・
川上第一・南相木・北相木・南牧南の6年生が集まって、
それぞれの小学校の音楽祭で発表するであろう合唱曲を、
発表するという会。
これは南佐久郡学事職員会が主催しているものだ。
最近では、教職員の負担を減らすっために、
学事職員会の組織自体を
解散しようという方向性も出てると聞く。
だが、南佐久郡のように
小学校6年生の総数が30人以下の小学校が、
8校中、7校をしめるような地域では、
こういった広域のつながりが、
重要な価値を持つような・・・私などはそんな気がする。
結局、
学校教育の最大の特徴であり、
かつ私の不満の中心点は、
どの学校も一律であろうとする公共性と、
一律的になりえない現実
その現実への柔軟性の欠如なのだと痛感する。
さて、 合唱はというと・・・
いや、どこもかしこも上手であったと思うし、
練習してきたなぁ、工夫しているなぁって感じる。
ただ、私は中学校の合唱を聞く経験を多く持っていたので、
どうしても男子の低音に支えられる合唱というものと、
比べてしまって、なんだか辛口になっていけない。
しょせん、人は
自分の持っている経験の範囲でしか、
物事を理解できないのではないかと、
つい自己弁護をしたくなってしまう。
そもそも、
合唱とは数の力である
と私は思っている。
もちろん、個人単位において、
自分を表現する経験と、
他者を尊重する経験の両方を得られることは、
非常に大きなメリットであることは言うまでもない。
そうであったとしても、
個人個人の違う声をひとつに集約することで、
1つの演奏にするという合唱は、
突出した個性よりも、
調和の取れた数の力が評価される活動だと
やはり思わざるを得ない。
ここでふと長年の疑問が思い起こされた。
例えば、どうしても音程が取れない人がいたとする。
その人が、がんばって歌をうたう・・・。
歌えば歌うほど、
声をそろえるという目標から離れていく。
極端な話、その人がいなければ、
もっともっと美しくそろった歌声になるのではないか?
これはもう、おそろしく逃げ場のない
教育的命題であると言えよう。
そして、こういった教育的命題は、
実は至るところで顔をのぞかせる現実がある。
当然、教育的な立場としては、
特に、無作為に集まった集団であればあるほど、
それぞれ個人の成長や気付きに重きを置いて、
結果は二の次・・・ということになるにちがいない。
当然それは教育的には尊重されるべきことだ。
だが、任意集団が合唱コンクールに出場するようなときならば、
勝つために、それが苦手な人を外す・・・
という選択肢を容認しなければならない。
実際、野球やサッカーでは、
レギュラーというものが存在して、
当然ながら能力が低いものは試合に出場できない・・・
ということはあまりにも自然なことだ。
だったら、合唱だってそういった考え方があってもいい。
なんだかまとまらない話になったが、
ようするに教育的な経験としての合唱は、
その過程を知らない外野には、
わからないことがいっぱいあって、
結果としての表現のみを見て、
あーでもない、こーでもないと言えないということだ。
そして実社会では、
自分の不得意なことを強制されないような、
多様性をもった社会、
もしくは自分の多様性を表明できる社会が、
必要だということだろう。
つまり選択という行為が、
もっともっと尊重されるべきだということだ。
やりたくもないことをやらされたあげく、
不要扱いされたのでは、
教育的に益がないばかりか、
害をあたえるのは誰でも想像できるところだろう。
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