5月のゴールデンウィークといえば、
佐久バルーンフェスティバル。
毎年毎年、時間的隙間があったら出かけていく。
屋台やら体験コーナーもそれなりにあって、
ステージでのイベントなんかもある。
ドネル・ケバブを食べたり、
焼きそばを食べたり、
からあげを食べたり・・・
食べてばっかだなぁ。
食事代わりに訪れるのはもちろんのことだが、
体験のイベントもそれなりにあって、
ここ2年連続で木工体験・・・
子どもが1000円で小さなイスをつくるという体験をしている。
現実的にはパーツの木片が渡されるので、
それを位置を決めて釘打ちするというもの。
これが案外、子どもの思考や身体的能力、工夫の仕方などの
成長をはかるのに良い機会になっている。
残念ながら、今年は長男不在のため、
次男と三男の診断しかできなかったが・・・。
次男は木片を重ね合わせたりして、
釘を打つ位置を確定させるという工夫ができるようになっていた。
おそらくできあがりのイメージが、もてるようになったのだろう。
この活動からするに、
時制の能力が身についてきたとみえる。
自分の過去の経験などをもとにした上で、
先を見越して活動をしたり、
未来を予測して今の行動の判断を導いたりすることは、
実は簡単に見えて難しいことだ。
自分からそれができるようになるのは、
私の印象では中学2・3年生ぐらいからだろうと思う。
それまでは親や先生の指示から、
今という時間において、それを導いていることが多い。
いわゆる刹那的な他律によるものだ。
これが、時制的な自律に変化するためには、
ある程度の自然発生的な時期と、
それまでに蓄えてきた自分で決めるといった体験の
圧倒的な量がもとめられる。
そういった意味で、
次男にその土台ができ始めているという発見は、
私にとっては大きな収穫だった。
三男はといえば、まだ小学1年生であるので、
釘を打つといった技術的なことも、
全体像を見通すことも、
正直、できると思っていない。
ただ、短時間のうちに何かコツをつかむといった能力を
おしはかることはできるし、
どの程度の根気を持っているかも見ることができる。
これがまた意外な結果だった。
まず、かなづちで指をたたいてしまって、
指先の皮がずるむけたにもかかわらず、
三男は作業をやめようとしなかったし、
ぐずって助けを求めることもしなかった。
絆創膏を貼りはしたが、
そのあとも黙々と釘を打ち続けていた。
これは評価できる。
流石に、釘が打てるようになるところまではいったが、
どうやったら楽にうまく打てるのか?
という試行錯誤をしているとまでは認識できなかった。
これは、また来年への課題となるなぁ・・・
と思いつつ、それでも満足のいく体験が、
2人の息子にも私にもできたように思う。
今まで該当学年を担当する形式である、
学校や塾ではあまり気にしたことがなかったが、
毎年同じように行われる行事というのは、
毎日見ている自分の子の身長の伸びを実感できないのに、
たまに会った親戚の子の身長が伸びているのを実感できるような、
子どもの1年単位の成長を確認するのに適している・・・
ということを改めて知った。
教育上、体験学習において
1回だけでも体験するというのは、
それはそれで貴重なことであると思うが、
このように、
同じことを毎年体験するという体験学習のありかたも、
むしろ家庭教育上では、
とても貴重で価値のあることだと思う。
その価値は、実は子どもたちにとっての価値ではなく、
われわれ親が子どもを認識するという意味でこそ、
重要な体験学習になりうるのだ。
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