スポンサーリンク

三男が、そして私が試される学校給食?

小学1年生といえば、最初は給食がないのが通例だ。

これは給食という活動が1年生にとって、

かつ教員にとって

ハードルが高いことを意味している。

ただの食事ではなく、

食育という観点から考えるからなおさらだ。

学校での給食の1回め2回めというのはそれだけ価値が高い。

1年生が学校に楽しく慣れていくというという目的からも、

どうしても障害になりやすい要素を含んでいるから、

1週間・・・いや2・3日ぐらいは、

午前中に下校して家庭に戻ることをしたい、

というのが通例の考え方である。

 

が、佐久穂小学校は午前中下校を4月5日の1日だけにした。

これは、学校としては大英断であると私は思う。

逆に、今更ながらではあるが、

食事をすることに関する教育的な、

もっというとしつけとしての対応が、

家庭でどれぐらいなされていたか?

ということが問われる局面でもある。

 

以前にも書いたことがあるが、

食事は社会的活動としてもっとも教育に関わる事象だと考える。

その最大の理由が、経験回数が多いことだ。

1日3回だとして、1年間で約1000回。

それを小学1年生ならば5年近く・・・

つまるところ5000回の経験回数となる。

 

私は、実は、教育的に成功経験とか失敗経験とかは、

本人の、もしくは周りの人による印象操作であると思っている。

経験した事象はもちろん、そのものとして存在している。

これは「事実」とも言えるものだ。

ところがその「事実」に対して、

価値観が付加されて、

それがその人にとっての「真実」となる。

このそれぞれが思い込んでいる「真実」によって、

様々な2次的な効果がもたらされる。

 

ドイツの鉄血宰相ビスマルクが言ったとされる

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

に、近いかもしれない。

まぁ、この言葉についても日本語らしいかっこいい訳になっていて、

微妙だと感じるのだけれどもね。

ちなみに、ドイツ語の直訳とされているのは、

愚者だけが自分の経験から学ぶと言う、

私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、

他人の経験から学ぶのを好む

というもので、日本語のものとはちょっとイメージが違う。

 

いや話がずれまくった・・・。

まぁ、愚者はそういうことをしやすいということだ。

で、元に戻して、さっきの続き。

たとえば、

Aを否定したいという状況下で、

それを否定することで代わりにBが用意されたとする。

その経験者はきっと、

自分の主張さえ通せば、自分の思い通りになる

という小さな経験をする。

そしてその経験は経験者にとって成功体験に分類されてしまうだろう。

だから、次も同じ方法を採用する。

そのうちその成功体験はその人の「真実」へと進化?する・・・。

 

この経験、食事に関していうと、

小学校に入学するまでに約5000回の機会を得ることができる。

だから、上記のような体験、

つまり、

好き嫌いを押し通して、それを是とする環境にいた子どもたちは、

学校給食の場面ではもちろん、

おそらく学習についても、

好きな勉強だけやって、嫌なことはしないし、

友人関係についても、

嫌いな人を徹底排除して、

自分の好む人物で周囲を固める。

といったような、同様の対応を選択する。

なぜならその成功体験が自分の人生に一番有効であるから。

そして、いずれその対応が「真実」であると・・・

一歩間違えばそれが世の中の「真理」であると、

錯覚すらしてしまうかもしれないのだ。

 

昔は家庭や家族というものが、

小さな社会を構成していた。

だから社会のもつ多様性と、

多様性が故に受ける理不尽さと、

その理不尽さの中で受けるありがたい優しさを、

小さな社会で小さく体験していたのかもしれない。

 

さて、今はどうだろうか?

理不尽さを悪としてできる限り排除し、

万全の優しさでつつむ・・・。

理不尽に耐える力と優しさに感謝する気持ちは、

どこで育っていくものだろうか?

 

これは皮肉で言うのだが、

世界が今の家庭のあり方のようになってくれれば、

きっと今の家庭のあり方でも、

将来、子どもたちは幸せになれるに違いない。

 

でも、これはあくまでも私の考え方。

だから、他の人の考え方を否定するものではない。

ただ、自分の子どもをはじめ、

自分に深く関わってくれている子どもたちに、

実際に社会に出たときに、

つらい思いをさせたくないために、

今がどうすべきなのか?

と思ったに過ぎないのさ。

 

4月全員協議会まであと6日

コメント

タイトルとURLをコピーしました