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ほめてのばす?

あくまでも個人的な感想のレベルでしかない・・・。

 

いまの世の中、情報が満ち溢れている。

情報を得ることはもちろん大事だとも言っておく。

が、それ自体、本当に大切なことなのか?

 

情報は「あるだけあったほうがいい」という論調は今に始まったことではない。

情報はあったほうがいいにきまっている。

まさしく正論。

 

古代の哲学者であるアリストテレスが語るには、

最高のフルートは最高のフルート奏者にあるべきだ

という。

哲学的議論についてはちょっと脇においていおて、

それでも、

最高のフルートの所有者が、

フルートを演奏することが全くできない人だったならば、

最高のフルートが最高のフルートになりえない。

それは、なんとなく実感してもらえると思う。

だって、最高のフルートの価値は、この場合、最高の音をだすことにあるからだ。

 

じゃぁ、情報は?

情報を活用することなく、集めるだけで価値を生み出すのか?

やはり活用してこそだと思う。

となると、人はできる限り最高の情報の奏者になろうとしなければならぬ。

でなければ、集めた意味がないということになりはしないか。

意味がないだけならまだしも、

情報自体は玉石混交どころか善悪虚実混合であるから、

無益どころではなく、有害にさえなったりすることもあるだろう。

 

 

さて、

「子どもはほめてのばす」という教育論が

昨今、主流をしめている。

その教育論が主流を占めているのに比して、

ほめ方の奏者としての技能が、

一向に上がってきていないと思っているのは私だけだろうか。

 

あいさつをした子に「ごあいさつができるなんてすごいね、すばらしいね」という。

反論があろうとは思うが、あえて言う。

「すごくない」よ、それは普通、当たり前!

価値観に当たり前などは存在しないとは思うが、

あいさつをするのは当たり前である、と

私は子どもたちに、そう思ってもらいたい。

これは願望である。

でも、きっと上のように子どもをほめた人も、きっとその願望は同じであろうと思う。

しかしだ、

逆説的ではあるが、あいさつをした子に上のような声がけをするってことは、

ほめた大人が、その子どもに対して無意識のうちに

「あいさつができない子だ」という認識を持っているということになりはしないか。

 

ようするに、ほめることは正しくても

ほめ方がうまくなければ価値をもたらさないということだ。

それを認識していない大人が多い。

だから、むやみにほめる。

だから、ほめてものびない。

しかもそういう人に限って、「叱るのはよくない」と思い込んでいる。

だから、ほめてものびないどころか、悲しい思いをさせられる。

 

とかく人の世というのは、

正しい認識が、正しい行動をもたらすとは限らないのだ。

 

これは自戒をこめて書いている、個人的な感想。

 

だから私は、自分の子どもに対しては、

全力でほめて、全力で叱る。

ほめるときは、本人の気づいていない点を、

大人でなければ気がつけない点をみんなの前でほめる。

叱るときは、子どもがまずいかなぁって日頃から思っている点を、

大人はちゃんと見ているよっていう意思表示も込めて、一人に対して叱る。

全く気づいていない、人としてよくないことは、

それこそ全力で、断固たる態度で、否定をする。

それはほめるとか叱るとかのレベルではなく、禁止事項だと思うから。

 

私は当然、神様のような対応ができるわけではないから、

こうやって、自分で基準や規定をつくって、

それにある程度従って対応するようにしている。

でも、その基準や規定からよくはずれちゃって、結局、

あとで落ち込みながら反省をすることになるんだけれどね・・・。

 

6月定例議会まであと10日

 

 

 

 

 

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