破産国家・・・
こんな言葉はそれこそ歴史の話かファンタジーの世界でしか、
起きないことだと思っていた。
とはいえ、基本的には資本主義が始まってからの概念であるし、
歴史の話というにはあまりにも資本主義というものが、
歴史的な熟成が短すぎることを考えると、
歴史の話ではないことは容易に理解できる。
この熟成というのが問題なのだ。
資本主義の歴史が浅いことが問題なのではない。
浅いがゆえに知的格差がそこに存在し、
利用する側と利用される側に分かれていて、
利用する側にまんまと利用される側がだまされてしまう・・・
その状態こそが問題なのだ。
ようするに・・・
かねもちしかかたん!
ということだ。
スリランカはその首都で有名であるが・・・
スリジャヤワルダナプラコッテ。
あとはセイロンティーかな?
そのスリランカという国家が破綻した。
事実上、債権者である中国に港が抑えられたり、
燃料である石油が輸入できずに国内が混乱している。
国家を個人として考えるのは暴論であるが、
借金をする人はお金を貸す人に搾取されるのは道理で、
借金というのは、返済が滞っても、
それこそ基本的にはお金を貸す人にとってみれば、
得があるから金を貸すのだ。
こんなこと、子どもでも理解できる・・・はずなのだが、
現実的には大人であっても、
というか、国家の運命を左右する国家元首ですら、
理解できていないのが現実だ。
ひるがえって、日本人はどうか?
私を含めて、資本主義に詳しいわけではない。
圧倒的に搾取される側である自覚はある。
これはきっと、
日本の教育にその根本的な問題がある。
日本の教育は、あまたの良いところがあるが、
ほんの少しの、しかも重大な欠陥がある。
それは自分の正当な権利のために戦うという正義と、
資本主義社会に生きる仕組み・・・
それを避けて通っているという点だ。
太平洋戦争で負けてから、
その理想的なありようがしっかりと教育されてきた。
仲良くすること、調和すること・・・。
そして、欲をかかないこと、倹約節約すること・・・。
それは重要な価値観であるが、
それを真摯に守っている人が損をしている・・・
そういった状況が後を絶たない。
欧米諸国などの場合は、
それが宗教の役割なのかもしれないが、
それができなかった日本は、
教育によって、道徳によって、
それが行われてきたのだと・・・
そう思えてならない。
教育や道徳がいけないのではなく、
パズルのピースが足りないという感じ。
さて、スリランカがどのような経緯をたどるのか?
一時のトピックとして、
破産国家という言葉に反応するだけでなく、
破産国家という言葉が資本主義社会で、
どのような重みをもってどのような方向性を生み出すのか?
それを今後の学習のために注視していかねばならない。
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