人が行動するときのモデルというのは実に興味深い。
自然科学の1つの大きな手法である演繹的なアプローチよりも、
帰納的な手法によって、
それを解析していくしかないのが現実的な考え方だ。
だからこそ、大きく言うと歴史、小さく言うと経験、
というものが、人にとっては大きな価値を持つのだろう。
もちろん人が行動するということに対して、
科学的なアプローチはしていかねばならない。
が、人の行動というのは、
あまりにも多くのものに左右されてしまっていて、
またそこに、人の持つ曖昧さも加わって、
結局、決定的な解決には至らない場合というものが多い。
仮説をもとにした解決方法の採用
という手法しか、おおよそとりえないのだからしかたがない。
私が関わっている世界、
教育とか政治とかは、
特にその傾向が強い分野であろうと思うから、
私にとっては、この悶々としてしまう日々がさらに続くことを示している。
そんな前置きをした上で、
人が意思決定をするというところに今回は着目したい。
意思決定についてを考えるとき、
さっき話したように、人の行動であるがゆえに、
これについても、
いくつかの事例を集めてモデリングするのが基本的なとらえ方となる。
いわゆる○○モデル・・・というやつだ。
で、表題の通り、意思決定の過程をモデル化したものの1つを、
ゴミ箱モデル
という。
ゴミ箱モデルというのは、
言葉があまりにも皮肉的というか斬新的というか・・・。
まぁ、とりあえず簡単に説明する。
まず意思決定機会・・・つまり会議などをゴミ箱に例える。
で、参加者・問題・解決方法などをゴミと見立てて、
それらをゴミ箱にポイポイ放り込む。
で、そのゴミ箱がいっぱいになったら、
そこに投げ込まれたゴミの様子によって、
結果が決定される・・・という意思決定に関するモデルだ。
そこで出された結果・・・つまり意思決定には、
おおよそ3つのタイプがあるといわれている。
ひとつは問題が解決されたことによる決定。
問題に対して、様々なゴミ・・・人や解決方法が放り込まれたことにより、
ゴミ箱がいっぱいになる前に問題が解決してしまったというもの。
もうひとつは、ゴミ箱に様々な他の問題が放り込まれる前に、
参加者によって解決方法が採用されてしまうというもの。
これを見過ごしによる決定という。
検証不足によって決定しやすいうちに決定をしてしまった場合などがそうだ。
そして最後が、やり過ごしによる決定。
ゴミとして放り込まれた問題が解決されないままでいると、
そこには慢性や気だるさがでてきたりして、
いくつかの問題や参加者・解決方法がゴミ箱からなくなってしまう。
結局、時間切れなどのため、
とりあえずの結論を出すという形になり、
問題の本質ではない、なんらかの小さい問題解決の決定をみる場合。
それこそ、あくまでもモデルなので、
すべてがこれらに該当するわけでもなく網羅しているわけでもない。
が、過去の経験のいくつかの場面で思い当たる節はある。
ここで私が大事にしたのは、
だからいけない!ということではない。
人の行動に正解などはなかなかないので、
これらを繰り返しながら、意思決定をしていかねばならない。
むしろ、これらのモデルに分類されることを意識しながら、
大きな、そして明らかな選択の過ちをしないようにすべきだと考える。
俗な例で申し訳ないが、
中学生が好きな人に思いを伝えるかどうかという例でいくと、
伝える・伝えないの決定をする。
目があった、話ができた、とただそれだけを喜ぶようにする。
結論が出せぬまま卒業式を迎える。
どれをとっても、
そこには明確な可も否もなく、最善の結論というのもない。
重要なのは意思決定をすることそのものなのかもしれない。
このモデルの特徴は、根本的に、
大抵の場合、もともと人は合理的な意思決定ができない
という考え方が前提になっていること。
その前提が事実かそうでないかはわからないし、
ゴミ箱とゴミに例えるからなんだか不快な感じがするが、
それでも私たちは、
ゴミ箱にゴミを放り込み続けていかねばならない。
そういった意味で、
民主主義というのはゴミ箱の責任をみんなが分担する・・・
合理的でないかもしれない意思決定を、
合法化する仕組みなのかもしれない。
本日、10月全員協議会開催

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