PTA会長として佐久穂小学校のPTA新聞の原稿を書いた。
特に最近思うことだ。
どうも人からの親切は当たり前で、
人への親切はそのゆとりがないか、
もしくは義務感を感じないとか、まぁ理由は色々とある。
時代の流れでもあるかもしれない。
PTA活動もその流れに逆らえない現実がある。
そこに対する思い出もある。
以下その原稿。
令和元年度は佐久穂町にとって、四月の林野火災に始まり、十月の台風十九号と厳しい一年となりました。被災された皆様にはお見舞い申し上げるとともに、一刻も早く復旧が進むことをお祈り申し上げます。
そんな中でも子どもたちに、大人の善意を見せることができたということは不幸中の幸いでした。消防団の献身的な活動、泥出しのボランティア活動に率先して参加する地域の人たち、他にもまだまだありますが、そういった大人の善意を、子どもたちはきっと人生のどこかで思い出してくれることでしょう。
そもそも善意というものは、そうそう表面化するものではありません。私は善意が表面化するにあたり二つの条件が必要であると考えています。一つは、他者が緊急事態である場合。今回の災害などはその最たる例です。そしてもうひとつ。これがとても大切なことなのですが、善意を持つ人にゆとりがある場合です。ゆとりがない人は、他者を助けることなどできません。それどころか、他者への嫌悪感をあらわにしたり、ときには危害を加えたりすることさえあります。
これからの時代を担う子どもたちには、こんなギスギスした時代だからこそ、善意を身につけてほしいと私は強く願っています。今こそが、善意は自律・自立が根底にあってこそ具現化するのだということを再確認し、自分の子どもたちが善意を身につける前に何をなすべきかを改めて考えるときではないでしょうか。
そんな中でも子どもたちに、大人の善意を見せることができたということは不幸中の幸いでした。消防団の献身的な活動、泥出しのボランティア活動に率先して参加する地域の人たち、他にもまだまだありますが、そういった大人の善意を、子どもたちはきっと人生のどこかで思い出してくれることでしょう。
そもそも善意というものは、そうそう表面化するものではありません。私は善意が表面化するにあたり二つの条件が必要であると考えています。一つは、他者が緊急事態である場合。今回の災害などはその最たる例です。そしてもうひとつ。これがとても大切なことなのですが、善意を持つ人にゆとりがある場合です。ゆとりがない人は、他者を助けることなどできません。それどころか、他者への嫌悪感をあらわにしたり、ときには危害を加えたりすることさえあります。
これからの時代を担う子どもたちには、こんなギスギスした時代だからこそ、善意を身につけてほしいと私は強く願っています。今こそが、善意は自律・自立が根底にあってこそ具現化するのだということを再確認し、自分の子どもたちが善意を身につける前に何をなすべきかを改めて考えるときではないでしょうか。
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