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他者を傷つけることはありか?

そりゃぁ、

他者を傷つけることがありか?

と問われれば、十中八九は「なし」だと答える。

まぁ、当然。

 

自己満足のために他者を傷つける人がいるとする。

そんな人は絶対に許せない!

と十中八九主張することだろう。

自分の利益のために他者を傷つける人がいる。

これも同様、

そんな自己中心的なことは許せない!

ときっとみんなが言うことだろう。

 

それはきっと、

カントのいうところの、

アプリオリな・・・理性的な・・・誰もが持ちうるような・・・

つまり、定言命法的な道徳観念なのだろうと思う。

 

と・・・ふと、ここで考える。

定言命法的な道徳観念というのは、理性的で、

個々人の感覚の上位に存在する共通的なものと捉えることができるとして、

極論すると

大多数の感情的な共通点なのではないかという疑問。

 

さっき、

自己満足のために他者を傷つける人がいるという話をした。

これが許しがたいことだとすると、きっとそれは

自己満足を我慢し、否定した行動をその人自身に強要することで、

その人の自己を傷つけるという選択肢を自分自身にさせることで、

他者を傷つけることをしない、もしくはさせないのではないか。

さっき、

自己の利益のために他者を傷つける人がいるという話をした。

これも同様。

他者を傷つけるぐらいなら、自己の利益を犠牲にすることが美徳であると、

強要していると言えるのではないか。

大多数が、自分のではない他人の自己犠牲を

当然のこと、もしくは美徳であると主張することによって・・・。

 

いやいや、自分で自分の選択や行動を決定をするのは構わないし、

自分が自己を犠牲にするというのであれば、それは構わない。

が、正義の名のもとに、

まさにカントが言うところに近い

「理性的な人間ならそんなことはしない」

という迷惑をかけられるのが嫌である大多数の人が思う正義の根拠によって、

その人の欲求や利益を犠牲にするように強要することは、

実は、先に述べた2つの、

許しがたい行為そのものなのではないか・・・。

 

そんなジレンマに悩まされている今日このごろ。

 

相手が殴りかかってくるかもしれないから、

いつでも殴れるように準備し、

殴りかかってきたら、もしくは殴りかかってきそうな気がしたら、

殴ってしまえ!

自己の利益を守るためにはそれしかない!

というのでは、

人はなんと成長しないことだろう。

じゃぁ、どういう風にしたらいいのか・・・と言われても

正直わからないから、またやっかいだ。

 

相手が殴りかかってきそうだから拳をにぎる。

拳を握った様子を見れば、相手は殴られるかもしれないという恐怖から、

握っていなかった拳を握る。

その拳を握った様子を見たら、相手は完全に拳を握って

ついには暴力を奮ってしまう・・・。

 

これは実は、幼稚園の喧嘩よりもたちが悪い。

園児は忘れる能力、水に流す能力が、高度に発達している?から、まだいい。

大人は拳を握ったことも含めて、

相手が悪から仕方がないという自己正当化もした上で、

ずっと覚えているから・・・たちが悪い。

 

さらに、たちが悪いのは、

大人の方がもっともらしく、共感を誘うような、

自己正当化をするってこと。

何かを奪おうとしたから、奪われる前に行動するのはしかたがない。

一見もっともらしく見えるが、

「奪おう」という判断や価値観は誰がきめるのか?

きまっている。

もっともらしい意見を述べた側だ。

しかもそれがもっともらしく聞こえてしまうから、余計にたちが悪い。

 

いやはや、人とは、

立場によって思考をコロコロ変えられるものなのか!

と、思わずにはいられない。

 

佐久穂町戦没者慰霊式典まであと1日

 

 

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