少し前の記事で、情報リテラシーの話の一端として、
今の子どもたちのデジタル機器との関係性を理解しないと、
情報リテラシーという範囲のみならず、
大人と子どもの関係そのものが先へ進まないという話。
これは別に、
デジタル機器が発達してきている今だから起きている現象ではない。
私が子どものころでさえ、
漫画というものは、決して善の価値を持つものではなかった。
読書といえば、活字を読むことであって、
漫画のたぐいは子どもっぽい人が読むものと定義されていたように思う。
だから、活字で歴史が理解できないならば、
まんが日本の歴史を読めばいい・・・みたいな、
トンチンカンな理論が当たり前のように通っていた。
もっともっと昔・・・
1955年頃には中国の秦よろしく焚書坑儒よろしく、
手塚治虫氏の漫画を学校の校庭で焼いた
なんて話も残っているぐらい。
でも、こんな蛮行を行ったその当時の人達でさえ、
きっと正義感にあふれていたに違いない。
漫画なんて読んだら、将来、悪い人間が増えると・・・。
私の親の世代ですらその影響は受けていたと思う。
じゃぁ私の親の世代は漫画なんか読んでいなかったのか?
そんなわけない・・・と思う。
じゃぁ、どんな漫画を読んでいただろう・・・。
私の記憶でも、ルパン三世やゴルゴ13などを読んでいただろうか。
ただ、わかっていることは、
当時、私たちが読んでいた、
ドラえもんやDr.スランプは読んでいなかっただろうということ。
子どもが読む漫画と大人が読む漫画は、
それでもまだ、線が引かれていた時代なのだろうと思う。
ところが今はどうだろうか。
大人も子どももワンピースやナルトを読むのが当たり前。
中には、子どもから紹介された漫画を、
親がそれを借りて読むなんてことはザラにある。
そこにはもちろん子どもを理解しようとする気持ちがないわけではない。
が、ほとんどが作品に対する興味と自分の欲で、
その行動がなされているのではないか。
そりゃそうだ。
だって私たちは漫画を読むのが当たり前の環境で
育ってきたのだから。
今の子育て世代の人の中には、
本棚に、自分の歴史家のように漫画の単行本が、
順序正しく並んでいる人も多いのではないだろうか。
そして今の子どもたちが楽しんでいる漫画へと、
その興味という触手を徐々にのばしているのではないか・・・。
ところが、今は本という形態そのものが衰退している時代。
子どもたちは、鬼滅の刃を漫画ではなくアニメでみる。
しかもかなり多くの人が、
漫画ではなくアニメから鬼滅の刃を知ったに違いない。
中には漫画は読んでないけどアニメは見た、
という人も一定数いるに違いない。
それもまた、
広い意味での動画を当たり前とする今となっては、
当たり前の現象である。
10年経てば10歳は20歳になり、20歳は30歳になり、
私はついに49歳になっている。
私の中では時間の経過はともかく、
社会というものを、自分の関わりの中で、
色濃く影響を受けて認識している。
だから、当然、私の社会の認識というのは、
私の関わりのある範囲内のことが鮮やかな色となって現れる。
当然ながら、子どもたちが見ている社会とは、
個人レベルにおいても、世代の相違においても、
ガッツリ違っていて当たり前なのだ。
話を情報リテラシーにもどすと、
1つの例として、
今の子どもは学校でも友達に会っているのに、
帰宅後もラインなどで繋がっている。
というものがある。
大人からしたら不思議でならないかもしれない。
明日学校で話せるのに・・・
そんなに話す内容もないだろうに・・・
直接話したほうが楽しいだろうに・・・
などなど。
でも、それは、
我々の世代が是としている社会性に基づいた、
よりよい提案・・・だと思っている発言に過ぎない。
そのあたりがある程度、
俯瞰して見られるようになる必要があるように思う。
ツールが自分を不幸にする本質ではない。
どうやってそれを利用するかがその本質だ。
火だって刃物だって自動車だってコンピューターだって、
人はそれなりに折り合いをつけて、
社会の中で克服してきた経緯を持つ。
きっと、自動車の自動運転だってDXだってそうなっていくだろう。
でもそれを技術的にではなく、社会的に構築していくのは、
きっとそれらの始まりに関わっていた少数の人ではなく、
それを当たり前のものとして、
社会の一部として受け入れた多数の人によって、
行われるんじゃないかと思う。
デジタル機器においては、それは私たちの世代よりも、
今の子どもたちの世代がきっとよりよい社会性を持たせてくれるだろう。
だから私たち大人は、そういった可能性が広がるように、
それらとそれらが当たり前と思える世代に、
寄り添っていくのがよいのではないだろうか。
佐久水道企業団議会運営委員会開催まであと5日

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