ふと、自分が中学生だった頃を思い出す。
長男が部活をやっている。
7月18日には驚くことに長野県大会に出場するらしい・・・。
で、自分の頃はどうだったかというと、
小学生の時に少年野球と小学校のサッカーチームに所属。
中学生になってサッカー部に入りたかったけど、
サッカー部がない中学校に入学しちゃって、
野球部に所属。
高校生になって念願のサッカー部に所属するものの、
あまりにも中学校でサッカーをしてきた人たちとの差に愕然とし、
ゴールキーパーになることで、高校生活の、
自分の立ち位置を確保したのを覚えている。
さて、そんなことはどうでもよくって、
当時、小中学生のころは、
運動中に水分をあまりとってはいけない!
と、指導されてきた。
それが、今はどうだ・・・
水分補給をしなければならない!と変わってしまった。
考えてみれば、
私が中学生くらいの頃は、
昔はウサギ跳びをやっていたが、
あれは体に良くないからやってはいけない!
と、昔の否からの今の是を声高に言っていたころだ。
まさか、数十年後に、
水分補給を怠るな!塩分もな!
という展開になろうとは夢にも思わなかった。
そういえば、
ほとんど誰もが同じような指導をしていたにも関わらず、
あのころの指導を謝罪している指導者にあったことはないな・・・。
かつての指導者にあったとしても、
あのときはあれが普通だったと、
いかにも私は悪くないというような雰囲気でいる。
きっと私とて同じなんだろうとは思う。
それほど、知識というのは虚実不分なものだのだろう。
そもそも知識というのは日々成長しているといえる・・・
いや、もしかしたら、
そこに真なる答えは実は必要なのではないのかもしれない。
必要なのは、真偽に関わらず答えだけなのかもしれない。
そういえば、私達の子どものころは、
石油が枯渇する!
という話をひたすら聞かされた記憶がある。
あれから40年・・・気がつくと、
石油が枯渇する様子は見られないまま、
地球が暖かくなるからダメだと言う話にシフトしている。
人の提唱する知識に頼るしか私の力がないわけだが、
様々に言われている知識が、
知識としてではなく、
ベクトルを持つ情報として区別されなくなってきている気がする。
いや、もしかしたら昔から、
知識というのは単なる情報・・・
いや、何かを意図した情報なのではないか?
という思いが強くなりつつある。
おそらくそれは、
このネット社会の拡散のもと、
情報というものの持つベクトルに
気がつく機会が増えたからかもしれない。
国語の授業のときによく言う。
西部は合気道2段だけど体重が100kgだ、と、
西部は体重100kgだけど合気道2段だ、とでは、
同じ情報であるにも関わらず、
そこには印象操作が含まれているものだ。
これは国語の問題を解く上で、
筆者の考え方を読み解く上で重要な基礎となりうる。
逆に言うと、
その基礎が理解できているかいないかで、
素の情報と意図を切り離すことができるかできないかが、
変わってきてしまうということだ。
世の中には多くの知識と呼ばれる情報がうごめいている。
それらの知識は、
発信者によって生命力を与えられ、
ある一定の目的をもって自立している。
そういう観点で言えば、
宗教とか魔法とかも同じ知識なのかもしれない。
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