9月1日は、防災の日。
佐久穂町でも8月29日に町内防災訓練が行われた。
とはいっても、
このコロナ禍においては、
普段実施しているような、
消化器訓練や土嚢作成訓練は実施できず、
安全確認のみとなった。
関東大震災。
言わずとしれた、1923年大正12年9月1日11時58分に起こった大震災。
私にとっては歴史であるが、
それでもそのご、ニュースとしての
1995年平成7年1月17日の阪神淡路大震災
2011年平成23年3月11日の東日本大震災・・・。
他にもたくさんの大きな地震を知ってきた。
こうなると、すでに防災の日に値する日が、
続々と生じることになる。
もちろん地震だけが大災害ではない。
佐久穂町だからこそというのもあるが、
東日本台風は大きな災害であった。
もちろん、各地の豪雨被害とて同様だ。
さらに言えば大きな災害は自然災害だけとは限らない。
飛行機の墜落や大きな火災、自動車による事故、
不審者による無差別殺人やテロ行為など、
人為的なものであっても、
まさに災害と呼ぶに値する悲惨なできごとは山程ある。
その代表格として災害全般について思いを馳せる日というのが、
9月1日であると私は考えている。
ここで重要なことを2つ、
覚えている限りは、子どもに言い聞かせることがある。
1つは、避難訓練を始めとする訓練は、
どれほどバカバカしくリアリティがなかったとしても、
必ず取り組むこと。
訓練をしてもしょうがないという人も中にはいるし、
子どもに関してはそれを真理かのように主張する愚か者がいる。
それはまるで、死んだこともないのに、
死後の世界について雄弁に語るのに似ている。
本当に危険な目にあった人、
恐怖の自覚がある人ならば、
そんな絵空事は口が裂けても言わないだろう。
恐怖は人の体を硬直させてしまうものだ。
その時に10回に1回でも動ける可能性を・・・
いや100回に1回でもいいから体を動かせる可能性を身につけるには、
無駄に思えようがバカバカしかろうが、
仮想訓練・・・つまりシュミレーションしかない。
命のやり取りもないような、テストやスポーツの試合でさえ、
あれほどたくさんのシュミレーションをやっていても、
緊張からか思ったように体が動かなくなるのだ。
命の危機に際して、
ノーシュミレーションの人が、奇跡が起きたとしても、
100%のパフォーマンスなんて発揮できるわけがない。
やってみれば・・・で、
命を落としてしまっては、それこそ取り返しがつかない。
もうひとつは、
危機的状況になると思考は停止してしまうということ。
つまり虚言に踊らされることのないようにすること。
行き着くところは、日頃から、
学び、知り、考え、判断する訓練をしておくこと。
恐怖は体だけでなく、
考えることも停止させてしまう。
でも、人は不安から逃れるために情報だけは入れようとする。
情報は入れるくせにそれを精査することはできない。
そんなときこそ、
集団的心理によりそうことで安心感を得ようとする。
安心感を得るだけではなくて、自分の不安を解消しようと、
ほとんどの場合、他罰的・排他的になっていく。
関東大震災のときも、
目の前にある生命を救うことよりも、
自分たちの安心感を得て、怒りを解消することを優先するような、
そんな行動が起こされたやに聞く。
東日本大震災の折にも、
餓死者が出ているや有害物質の雨が降るなどの
通常時では???と思うようなデマが流れたという。
こんなことは、品性の欠片どころか、
知性の欠片もない行動であると言わねばならない。
カルネアデスの板という話があるが、
それには遠く及ばない・・・
それこそ自己満足による犯罪に他ならない。
問題はそれを、
やっている本人が自覚がないということだ。
そして、その自覚は、取り巻く環境によって、
鍛えていなければすぐにでも喪失してしまうものだ。
そこが、人としてよりよく生きること、
人としてのレベルをあげることなのだろうと、
私は考えるし、子どもたちにも伝えている。
私にとっては、
こういったことを改めて認識する日となっている。
それが防災の日。
まぁ、こういった話は、
どこまで子どもたちに伝わっているかわからないけど・・・
でも、それが子どもたちの人としてレベルをあげることだと、
今現在は疑っていないので、
毎年毎年、この頃には必ず反復しようと思っている。

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