いまだに「れいわ」と入力しても、
「令和」と変換してくれないが、
書類の端々に「令和元年」と見るにつけ、
自分の名前が元和だけに、
まいどまいど一瞬、
私のこと?
と戸惑ってしまう今日のこのごろ。
ちなみに私の名前は元和だが、
実は江戸時代のはじめ頃に元和という元号があったりする。
1615年から1624年で、
江戸幕府の将軍としては秀忠・家光。
ちょうど元和元年が大阪夏の陣の時期で、
戦乱が終了し、平和な時代への始まりと位置づけられる。
改めて、自分の名前に関わることを考えると、
親としては元気で平和にという思いだったのじゃないか?
と、思える。
確かに、3愚息の名前についても親としての、
思いを乗せてしまっている自分がいた。
私達の夫婦は、子どもの名前をつけるとき、
妻が生まれた瞬間に音を決め、
そのあとに、
私が漢字を当てる方法をとってきた。
長男は生まれたときに妻が「トウヤ」と名付けた。
特に董弥の董の字は骨董品の董という字で、
意味はれんこん。
ようするに蓮の根っこという意味だ。
これは私の思いが多分に乗っている。
その思いとは、蓮のように、
花を咲かすのはいざというときでいい
それまではしっかり泥の中で栄養を蓄えよ
というものだ。
これには私が今まで生きてきて感じていることでもあるし、
私の人生における反省点でもある。
目立つ行為というのは、
それ自体が目的であってはいけないと今は猛烈に反省している。
目立ってしまったという結果でなければならない。
次男は「ヤマト」で弥真人。
真なるものというのは、1つではなく、
むしろ無数にあると思っている。
それを理解するまでにずいぶん時間がかかったわけだが、
すべての真なるものに偏見なく向かい合いたいという、
私の思いがその漢字になった。
三男は「タクマ」で拓真。
これも他者の真を尊重しつつ、
自分から自分の真を作り出せる人間になりたいという、
そういった思いが込められている。
どれもこれも、
私が生きてきた中で、
未だに目標としている人間像なのだということに、
改めて気づく。
だから私の親もきっと大なり小なり、
そういう思いがあったのかもと今になって思う。
となると元和・・・
親は私に自分たちに不足しているどんな人間像を、
名前にこめたのだろうか?
その思いや無意識下の思考を、
私は具現化できたのであろうか?
今後も私は3愚息の名前に込められた思いもそうだが、
元より和む・・・
根本的なところでは対立を持たないことを知る
という人間になりたいと思う。
これは教育や政治の世界でとっても大切なことだと改めて思う。
明日、6月定例会開会
コメント