8月25日に行われた佐久地域問題研修会で、
過疎新法とその考え方について、
宮口氏に講演をいただいた。
今回はそれをきっかけとして、
少し過疎問題について私感を述べようと思う。
公演終了後にどうしても気になったことがあったので、
宮口氏に個人的に質問をした。
日本では過疎地域の問題は社会的に大きいものだが、
ヨーロッパなどでは過疎問題は起こっていないのか?
また、起こっていたとしてどう捉えられているのか?
答えはこうだった。
ヨーロッパにも過疎問題はある。
あるが、どちらかというと、それは社会のあり方の問題ではなく、
その地域の人達が、
生活できるかどうか?食べていけるかどうか?
の問題として捉えられているとのことだった。
過疎問題については、
国が社会問題として受け止めるというよりは、
EUがそれらの地域問題をサポートしているとのことだった。
それこそここから私の所感であるが、
人口が減った地域の人々にとって、
自分がそこで生活していけるか?
というのが本来の本質的な命題なのだろうと改めて思う。
どうも日本という国は、
日本全体の社会問題に寄せすぎているような気がしなくもない。
このまま人口が減り続けると大変なことになる!
というのは、日本に限らず先進国が抱える大きな問題だ。
でもそれは過疎問題の延長上にある問題ではない。
あくまでも人口減少のひとつの現象として、
過疎地域の問題が目立っているだけな気がする。
たしかに現実的にわかりやすく実感しやすいテーマではある。
だが、そこをクローズアップするばかりに、
人口を増やさなければならない!という安易な結論に、
社会全体が誘導されている気もする。
そもそもヨーロッパの先進国は、
さまざまな理由があるだろうが、
その人口増加はゆるやかなものであった。
だから人口減少についても、
ゆるやかな受け止め方ができるのではないか?
と思う。
それに比べ、日本の人口増加はかなり急激なものであったように思う。
江戸時代後期は3000万人ほどだったが、
明治に入って急激に人口が増え続け、
約100年間ほどで7000万人ほど増加し、1億人を突破した。
これはまさに日本の特徴であると思う。
私感なので、突飛な例え話を許していただきたい。
ひょんなことから宝くじが当たり、
一気に3億円を手にしてしまった人たちは、
どのような末路にたどり着くのだろうか?
感覚的妄想ながら、
きっとお金を使いまくって贅沢をしたあと、
その贅沢な生活が忘れられず、
元の生活レベルに戻ることができないで、
気がついたら借金をしてしまっている・・・
なんてことは容易に想像できる。
想像だろ?という人がいるが、
容易に想像できるということは、
すなわちそうなりがちである人の本質を知っている・・・
ということではないだろうか。
上げるのは簡単でも下げるのは難しいということを、
われわれ人は、自分のこと以外であれば、よく知っている。
さて、日本における過疎問題。
そう。
きっと山村地域でもともと不便な生活を強いられてきた人々が、
その不便さと共存するという選択をしてきたにも関わらず、
日本全体の人口増加によって、
ほとんどの田舎で利便性を味わってしまったのではないか?
だから、その利便性のある生活が、
不便を強いられるようになってくるとどういう反応をするか・・・
先の宝くじの例でもなんとなく感じていただけるのではないだろうか。
いや、そもそも過疎地域の住民は不便こそ解消してほしいものの、
それほど人が減ることに関して、
日常生活においては、
苦痛に思っているわけではないのかもしれない。
人が多かった時期の地域の仕事の割り振りが負担になっていたり、
それこそインフラ整備が人の多い地域が優先されたりすることに関する、
そういった不平不満はあるに違いないが・・・。
そもそも過疎地域とは、
過疎地域持続的発展の支援に関する特別措置法においては、
人口の著しい減少に伴って地域社会における活力が低下し、生産機能及び生活環境の整備等が他の地域に比較して低位にある地域
と定義づけされている。
かなり社会的定義で、かつ資本主義的定義であるように思われる。
ウィキペディアによると、過疎とは、
人口が急激かつ大幅に減少したため、地域社会の機能が低下し、住民が一定の生活水準を維持することが困難になった状態
とある。
この一定の生活水準というものが、
どのあたりにあるのか?
それを誰がどう考えているのか?
一旦著しくあがった生活水準というものを当然と思ってはしないか?
ということを改めて見直す必要があるように思う。
議会活性化特別委員会まであと3日
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